失敗

最近毎日生きることに失敗している。

何を以て失敗しているかは知らないけど最近ほんとにもうダメで、朝起きたら昼で飯食って寝たら夕方でポケモンやったら夜中だったりする。というかこういう記憶があったらまだいいほうでだいたいは一日の記憶を失っていて、しかも夜振り返ったら今日のことを覚えてないとかそういうのではなく一日中常に記憶がなくてさっきまでの自分がよくわからない。

何をそんなに失敗しているんだろう。

 

小学生の頃はゲームばかりやっていて、そこでは失敗と成功が明確に定義されていた。だいたいの場合は毛を抜くとか木を切るとか何か所与の条件を満たせたら成功で満たせないもしくは満たせなくなると失敗だった。現実世界は別にゲームではないのでそんな成功とか失敗とか出てくるわけではないはずだが、それでも人間は何かしら内部に失敗と成功を定義している。たぶんそれは社会から受け取ったものだ。受け取るのは受け手の問題なので社会がそれを発信しているとは限らないのだがともかく受け取ってしまった。

 

僕の根底には、「自らを形作ること」が成功であるという考えがある。

より消極的に、自らを形作れないことが失敗であると言ったほうが近いかもしれない。

 

学校に行って育ってきた。学校に行く、そこで座る、話を聞く、人とおしゃべりする、漢字を書く、数字を書く、係をする、ボールを蹴る、制裁を受ける、自分を殺す、この過程が矯正でなくて一体何なのだろう。受験というのはもっと単純で、大学の求める通りの頭を形成したら成功、できなければ失敗だ。一般的にはこれを成長と呼ぶのだろう。求められるままに自らを形作ることを。成長は善であるのでちゃんと成功者には報いらなければならないし、それゆえ失敗者は「発達障害」などの烙印で区別されなければならなくなった。自動的な肉体の成長が止まっても社会の値踏みが待ち構えている以上、我々大学生は成長を止めることは許されない。社会に入っても、多分これは解消されない。何もしていないと死ぬ。何もしていないと死ぬことに対して、僕は何もできない。

 

僕は社会の一部であるけど、同時に僕の一部は社会だ。社会が非成長を許さない以上、ここ最近の僕のだらけた時間は記憶として形を保つことが許されなかったんじゃないかと思う。あとに残ったのは失敗の印象だけだった。つらい。

 

時間を売って失敗を買う生活は単に気分的にあまり楽しいものではないので、そろそろ失敗から抜け出したい。でもだからといって別に成功はしたくない。そもそも社会が嫌いなので元から無理な話だ。「失敗」と「成功」という言葉は、漢字を見る限りあまり綺麗に対応した対義語とは言えないし、なんとなく実態もそんなもんなんじゃないかって気がする。失敗でもない成功でもない、その間隙を縫うように生きていけたらいいんじゃないかと最近思っている。