今月はブログを書いていこうと思っていたのですが

月初めにこんなことを書いた。

 

iwannatto.hatenablog.com

 

中身はタイトルの通りで、今月はブログを頑張っていくよ、具体的にいくつ記事を書くとかは決めないけどね、と書いてあるだけの記事だ。
「数値目標を決めていないにしても、頑張ると言っているのだからなにかしらの記事を書くだろう」と誰しもが思うだろう。

まさか今日に至るまでゼロ記事とは自分でも思っていなかった。

まあ単にお気持ちを発表していただけで、特に何かの責任を引き受けたわけではないので、別にどこにも実害はないと考えている。強いて言えば「こいつ言ったこと実行しないしクソダサいな」という評価が僕に降りかかってくるくらいだが、これは実態に即した評価なので甘んじて受け入れるしかないだろう。
しかしそれにしても、どうしてこうなった、という当然の疑問が自分の中に湧いてくるのは避けようがない。それならいっちょ分析をしてみようと思う。自己分析だ。就活の練習になるぞ。てなわけでここから先は僕が就活の練習をするのみなので、「それは別にいらないです」という人が読むと「それは別にいらなかったです」が得られて終わりになりますが大丈夫ですか?

 

あまり1つのことを長時間考え続けないようにしている。
これは半分意識的に身につけた習慣で、生活を営むための手段だ。
僕の性質として、ずっと何かを考え続けると思考の淵に飲まれてえらいことになる、というのがある。というのも、考えながら同時に別の行為をするのが本当に苦手なので、意識的に思考のスイッチを切れないと悲惨なことになるのだ。特に、思考のスイッチを切り損ねた状態で「休む」という重要タスクを実行しようとすると、思考にも休息にも失敗して時間が虚無に溶けてゆくのがこの上なく厄介だった。
それを避けるための手段として、この習慣を身につけた。
思考にキリを付ける方法は一旦習得してしまえば簡単で、脳の中身をメモに吐き出したのち、後回しにしようのマインドを発動させることで実現できる。もちろん完全に思考を切れるわけではないが、これが意識的にできるのとできないのとでは大違いだろうな、程度の効果は得られている。

このスイッチ切りを習得したのは、1つの成功体験になっている。というのも、僕がこれをできるようになったのはここ数年の間のことだ。それ以前の、ひどい状態にあった自分自身のことは、まだ覚えている。
そして成功体験になっているが故に、この方法を他にも流用しよう、という発想が出てくる。
その先の1つがブログだった。

記事を書くとき、「常に1つの記事のみに取り組んでカッチリ仕上げる」「複数記事を並行する」という2つの方法が考えられる。このうち一点集中法のほうは、過去に失敗体験がある。中学生だった時分か、もうはっきりとは思い出せない頃だが、ブログでなにかを書こうとして空中分解した経験があるのだ。ちょうどブログが流行った時期で、おそらくインターネット水面下では普遍的に起こっていた現象なんじゃないかと思う。この逆を試したかった。
適当に思いついたことを箇条書きでも書き出し、気分が向いたら付け足す。たとえ細切れであれ、いつかはやる気の向いた時間の総和が記事に足るものになるだろう。そうなったら収穫すればよい。これは理念だけでなく実行には一応移していて、6〜7割くらいに達したかなというものが3つほど、それ以下の細々したものがもう少し多くできた。
こうして遂に1つも結実しなかったわけである。

まあ何が足りなかったかと言ったら、シンプルに費やした時間が足りなかった。
日に1時間くらい取れば何かしら上がってくるだろうという気持ちでいたが、その半分くらいしか実行していない。絶対量が足りない以上、何もできてこないのは当たり前だ。
でももう一個、仕上げに対する執拗さみたいなのも足りてなかったんじゃないかと思う。
1つに囚われると自由度が下がり、つらくなる。それはもうわかったんだよ、と思ったし、もう十分なんだよとも思った。失敗体験として忌避していた。でもこれは避けすぎだったのだろう。

この記事が、今月初めて仕上げた記事になる。
しかし、この記事は執拗さだけで書いている。
中断なしの3時間一気書きでここまで来た。
だからやっぱり、そういうことなんだろう。
執拗さも不可欠という、それだけの話だった。

 

……はい。まあ大体こんなもんだろう。なんとなく頭の中が整理されてきた。

もうちょい自分の中での展望が欲しいので、この記事を仕上げる執拗さはどこから湧いてきたんだろう、というお題も考えてみた。3つくらい出てきた。
まずは自分語りが好きなので死ぬほどノッた、という理由。応用の効きにくい理由だ。
そして事実の裏を取らなくていいラクさ。半熟記事の1つとして「小学生でもわかるコンピューターの仕組み解説」というのがあるのだが、少なくとも自分に出来る範囲で誤りを除かねばならずたいへん大変でなかなか進まなかった。それがないのはラクでよかった。
そして〆切による強制力。この記事のタイトルを思いついたのが今日で、このタイトルは日付をまたぐと無に帰すので強制力が出た。

うーん、役に立つ理由がないなあ。特に、〆切直前のパワーで駆動するのは「いつか破滅をもたらす最悪の手段」だと思っていてなるべく回避したいのだが。〆切駆動、普通に効果が出るのがむしろ厄介なんだ。チギっても社会的にやばくならない〆切を自分で作り出せればいいのだがうまくいかない、自分で適当に区間を切っても自分を一切説得できない。今回は偶然「タイトル的に日付変わるまでに上げないと整合しない」という説得力が出たけど……どうしたものか。ブログを用いた宣言空中投げも、事実として今月失敗してるし微妙な手段だ。それとももうちょいキッチリ言い切れば空中投げでも効果は出るのかな。わからない。展望がないという展望を得ました。

さて、別に自分で反省しただけでオチもなにもないので、最後に本筋から漏れた話だけ書いて終わろうと思う。
僕が文章を書く時に一番好きなフェーズは、序盤戦で方向が見えてからの「好き勝手に枝を広げられる中盤戦」である。終盤戦は枝刈りして全体を整える作業だと思っていて、これはあまり得意ではない。そういう選好を持つ以上、宙ぶらりんが複数できるという帰結は思い返せばまあ納得だ。
だからこそ、その傾向を自覚し、仕上げにも本腰を入れるようなマインドを形成し己を高めなければならない。
とかいうタイプの精神論が僕はクソ嫌いである。
精神論、だいたい具体性が伴わないから嫌だ。選好を自覚するまではいいとして、その先は具体的行動に出なければならない。ところで事実の認識として、「並行」「集中」というのは両立しない2つの別概念ではなく、1軸上の2つの極にすぎないというのがある。これを踏まえると、今回は「並行」の極に寄り過ぎたのがまずく、「集中」の極へ少し引き戻せばよい、という話になる。これは普通にシステムでどうにかできるんじゃないだろうか。保持可能な中途書きの数に上限を設ける、とかやればある程度バランスするだろう。こういう感じで自分のシステムを改善して自分を改善して生きていきたいと思っている。ポジティブですね。

 

(おわりです)