結論のない文章

 つい最近、自分の書いた文章を読み返す機会があった。「冊子」という単語で、サークル関係の人はピンとくるだろう。そうしていると1つ仮説が出てきた。僕の文章は「関連性」と「結論」へのこだわりが強すぎるので面白くないのではないか。
 
 自分で言うのもなんだが、あの文章、出だしの部分はまあまあうまくいっていた感がある。一方、中後半では急速に失速し、何が言いたいかわからないし全然面白くない感じになってしまった。しかしよく考えると、あの文章、筋はかなり明確というか、個人における「中心」と「調和」→会全体にも「中心」と「調和」という概念は適用できますね、というかなりシンプルで露骨な構成をしている。しかし読んでいて何を言っているのかよくわからないし、全然面白くない。
 
 ところで、僕は文章を書く時には、まず適当にバーっと広げて、その後気合を入れて畳む、という方式を取っている。これは別にまずい方法だとは思っていないのだが、畳む時に「筋」を意識しすぎて面白くなくなるのではないか、という疑いが出てきた。畳むフェーズは自分の中で一番労力というか神経を使っている自覚があり、特に「本筋と関連性のない話を削ぎ落とそう」という意識が強い。そして本筋があるということは話の流れと着地点が定まっているということである。畳むフェーズに行くあたりで、本筋を決めなきゃ、と感じて話の着地点をキッチリ決めようとしてしまう。あの冊子の文章、好き勝手に展開している前半が調子よくて、中後半はよくわからない感じで死んでいたのだが、まさしくコレの負の面がモロに出たのではないだろうか。(あとはまあ、中盤にトリッキーな仕込みを入れようという気持ちが強すぎて、それに構成が引っ張られて面白くなくなった、というのもあるだろうけど。)
 
 冊子を読んでいると、やはり文章の面白い人というのが何人も見つかるわけだ。そして構成に着目してみると、やはり論理がガチガチで面白い文章というのはほとんどない。だからといって散逸しているわけでもなく、ちょっとづつ移動しながらも適度に重なりのある話をしている人が一番面白い気がする。こう、ベン図みたいな感じで。もしくは単に円が平行移動してるやつ、ボールが転がる時の絵みたいな感じで(?)。ある程度まとまりのある話を、ちょっと重ねながらズラしてポンポンポンと置いていく、みたいな。この方法だけが全てではないだろうけど、話の構成としては1つのうまい解だと思う。
 
 というわけで、結論をあまりキッチリ求めないようにしようね、というのを試していきたい。別にやったらダメというわけでもなかろうし、むしろ筋と連関をガチガチにやるのが僕の文章の特徴だとしてやっていく線もあるんだろうけど、自分の傾向に逆らってみようというチャレンジは大事な気がする。そもそも今この文章を書きながらも無意識に結論を探しているし、「筋がないなら〆に入るなよ」という脳内ボイスは今も鳴り響いている。これは意地だ。結論をキッチリしないという決意があるぞ、多分今は粗があらあらな文章だろうけどこのまま投稿してやる。これは推敲をしてないだけの見づらいやつになるのでは?という疑いもよぎるが、その時はその時だろう。
 
 ところで、その方針を取ると今度は「うまいこと文章を〆るのが難しい」という課題に直面する。というかこれは普段から難しいのだが、結論がキッチリ決まってると、論理的帰結としての着地+多少のふわっと感 でなんとか文章が終わった感じを出せるのでまだどうにかなる。一方、結論がキッチリ決まってないと、全部ふわっと感で着地する必要がある気がしている。これはかなり大変なんじゃないだろうか。しかし面白い文章を見ると、やはり一連の話の中でのゆるい重なりをうまく使ったり、あるいはそうするまでもなくふわっと着地する術を心得ている気がする。これ特殊能力じゃないか?全然できる気がしない。僕の性格的に、こういう場面では「わからない……なにもわからない……END」や「あえて勢いだけで雑に打ち切るEND」「全然関係ない画像を貼るEND」などで無理やり笑いどころにしてごまかしたくなるのだが、ひねりがなさすぎてあまり多用するものでもないなあ、という感じだ。ん、なんか今猛烈に自分の首が絞まった気がするな。普段やってることがバレた。こんなん言って今後このオチを使ったらクソダサいのだが、いい代案もないし、これからもバシバシ使っていくことになると思う。残念なことだ。
 
 まあそういう感じです。結局何もわかりませんね。
わからない……我々は人生について何もわからないのだ……。
ハイおわり!!!!!!!!!!!
 
 
(おわりです)