今週の実績解除:起こりの鶏そば、肉の丼

どうぞ。

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どうも唐突です。何かと言うと鶏そばを食べたよという話ですね。580円くらいだったっけな。味の感想ですが、パワーが十分ある、といった趣でした。いやね、もっと高い値段のヤツだとスープが異常洗練されて澄み切っており、「え、これ食べていいんですか?」みたいな見事な味がするんですけど、さすがにその域ではないという話です。ただ、鶏そばである以上は鶏の出力がないとお話にならないんですけど、そのパワーは十分すぎるほどぶっとばしてたな、という感じですね。麺はよく見る四角いやつで、安定感です。あと地味にチャーシューが薄いながらもキッチリした味を出していて、スープに食われてない存在感を放っており、職業意識を感じました。あとはゆずとか水菜とかがビジュアル的には出張ってますが、味的にはまあそれなりの役割でしたね(適当)。ともかく、600円切りにしてはやたらうまいなという印象です。

で、これどこのやつかというと、オリジンなんですよ。オリジン弁当のオリジンです。イートインがあったりして、オリジン"弁当"とは微妙に業態の違う店でしたけど(ここ見るとわかるんだけどオリジンの業態はいくつかある)。まあでも弁当とラーメンを並列して売っているという謎の雰囲気なのは変わりなく、いやお前なんでやねんと言いながら入店したんですけど、予想以上においしかった。流石にオリジンの店内でガチでラーメン作ってるはずはない(と思う)ので何らかのインスタントな方法で提供してるんだろうなと推測してるんですけど、スープに関してはインスタントでもかなりいい線いく時代になってるということでしょうね。コンビニ行くとたまに有名店再現カップ麺みたいなの売ってるんですけど、ああいう系もスープはかなりおいしいですからね。いい時代になったものだ。負けじと市井のラーメンも異常進化してほしいなあ。今はあんまその片鱗ないですけどね……。ラーメンに関しては未だに需要過多なのかもしれない。

次、どうぞ。

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どうも先程です。いやこれつい2時間前に食べたばっかなんですよ。用事で池袋に行き、予定はなかったのですが吸い込まれました。左がハラミ、右がセセリです。890。味ですが、これがめっちゃおいしかった。説明すると、全体のテイストは「焼鳥丼」に類似しています。タレが甘辛いんですね。でもこっちのほうが焼鳥丼より圧倒的においしいと思う。今から焼鳥丼をdisるんですが、焼鳥丼ってどうしても上に載っている鶏肉が微妙なんですよ。食感としては存在感ありすぎて邪魔だし、味としてはパンチが足りなくて中途半端。タレとご飯それ自体に割とシナジーがあるのに鶏肉がそこにうまく噛めてないというか、だから焼き鳥屋での〆の地位に甘んじているんだろうなというか。(焼鳥丼ファンの皆さんには申し訳ない)(おいしいのはわかるし僕も好きなんだけど、ここが惜しいよねという感情)

で、今回の丼なのですが、それが解消されていましてね。ハラミは薄さがちょうどいいしセセリも邪魔にならない食感なんですが、両方とも旨味が十分なんですよね、完全に飯・タレ・肉の3点シナジーを形成している。どっちも焼肉屋/焼き鳥屋でしか食べる機会ないイメージでしたがこんなポテンシャルを持ってるとは。あと地味にスープが良くて、普通の店でセットとして付いてくる無料のスープって「誤魔化し」みたいな味がするんですけど、こっちはちゃんとしてましたね。まあこの味が店のやる気の現れなのか味の素の含有量の現れなのかについては判然としない。

そういう感じです。飯の話しかしてない。課題に追われて時間がないんですよね。ほんとはもっと出かけたり……は別にいいけど、せめて運動をしたいですね。体ボッキボキなので。来週は余裕ができるといいなあ(先週も言っていた)。

そうそう、最近食べログを書くことにちょっと興味を持っています。いや、別にまだ書いたことはないんですけどね。ちょっとこれを見てほしい。これすごくないですか? ちゃんと「店のレビュー」になってる部分、全体の4分の1くらいですよ。あとは昔の面白話と自分語りです。はっきり言って、「店のレビュー」としては完全に失格ですよね。

でもこのレビューには42人がいいねしており、この人それなりにフォロワー持ってるんですよね。この店のレビューとしても割と上の方に出てくるし、食べログとしては別になにもおかしくないんですよ。つまり食べログというのは純粋な店のレビューを投稿する場所ではなく、「店のレビュー、おもしろ情報、自分語りなどをうまくブレンドした何か」を載っける場所なんだろうなという。その観点で見ると件のレビューが(たぶん、それなりには)評価されているのもわかります。この人普通にスッキリ整った文章を書いてて自分語りも読みやすいし、41年前の東大の状況の記述も興味深い。それでいてギリギリ(本当にギリギリ)店のレビューであるという体裁を外さないラインで書いている。そしてタイトルも秀逸。これ本当にうまくやっていると思う。

そういうわけでこのカルチャー、本当に興味深いんですよね。やってみたいという気持ちだけはある。やってみたいという気持ちだけはあるというのは、僕にはよくあることなんですけどね。どうなるんだろう。とりあえず暇なときに食べログのアカウント作ろうかな。暇なときっていつ来るんだろうな……。

そうそう、今回の文章にはオチがないです。毎回オチがあると思うなよ。

(おわりです)

今週の実績解除:ベストセラー2冊買う

ベストセラーというとだいぶ語弊があって、実際には某サイトのローカルなランキングで1位2位というだけなんですけどね。別にベストセラーな本を買うのを今まで避けてきたわけではまったくないんですけど、ベストセラーであるという理由だけで本を買うのは初めてでした。表紙以外中身知らない状態で買いましたし(普段はやらない)。

で、どの本かっていうとこれですね。amazonリンクを貼っておきましょう。アフィリエイトォォォ *1

1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365

10年後の仕事図鑑

でまあ、読んでみた(前者は読み終わってないけど)感想なんですけど、どっちもあんまりって感じ。別にまあ悪い本ではないんですけどなんか合わねーなーって感じですね。余裕があればあとで書評っぽい記事を書くかもしれないけど余裕がないかもしれないので感じたことの概略だけ書いておこう。

まず教養のやつなんですけど、印象を一言で表すと「教科書」に尽きますね。情報を狭い紙面に詰め込もうとした際に生じがちなあの文体。興味をそそらない単語羅列、説明したという事実をギリギリ確保できる濃度の解説。教科書で見飽きた文体で、はっきり言って僕はあまり好きではない。ただ、そもそもタイトル的に明らかにこの本の趣旨がそれをやるところにあるのでdisるのはお門違いですよね。教科書をやるという観点で見るとやはり売れてるだけあって完成度が高いと思いますよ。文章に破綻してる感じは一切ないし、限られた紙面で要領よく知識を網羅するという点でもかなりうまいことやってるなという印象を受けます。コンセプトと噛み合う人間にとってはたまらない本でしょう。ちょっと面白いのが、解説がある程度薄いというのもあって、あんまり素養のない部分を読んでも面白くないんですよね。「哲学」とか「科学」とか「宗教」に関しては知識を再確認できたり「ほー、こんなのもあるんだ」という新たな知識を得られたりするんですけど、何の素養もない「音楽」とか「視覚芸術」とかに関しては知らない単語がモリモリ並んできて「なんやねん」という気持ちにしかなりません。教養を得るのにも教養が必要なんですね。厳しい世界だ。まあでももちろん色々書いてあるので、興味の種を拾うくらいなら素養がない分野でもイケると思います。

仕事図鑑に関しては、まあ既知のことが多いかなという感じですね。僕は割と普段からこういう情報技術寄りな視点での大まかな社会の潮流はなるべく見ようとしているので。そもそもこの2人twitterでよく見てるし。内容的に深いことは全然書いてなくて概略と気持ちだけ、要は「初心者向け」の本だなという気がします。まあ対談書き起こしの本なので元々そういうものなんですけど。ただそれにしても具体性がないというかありきたりなのが気にかかるんですけどね。なんというかふわっふわなメレンゲをめっちゃうまいこと作ったなという印象。ビジョン語りのこの2人のシナジーにはすごいものがあり、そこは素直に感心します。まあ鵜呑みにしないぞという気持ちがあれば素養として入れておくべきマインドセットではあると思うので、AIとかの概念に馴染みがない人には結構おすすめできるのかもしれないですね。あとこれは明確にこの本の「悪い」ところなんですが、注のクオリティがカスです。たぶん著者2人は全然この本の仕上がり見てなくて書き起こしとか補注は丸投げしてると思うんですけど、今回は完全に人選ミスでしょう。「レバレッジが効く」みたいな文脈のレバレッジという単語に対する注に「てこ」とだけ書いてあったの、さすがにひどいと思いますよ。

まあそういうわけで、ベストセラーでも別に個人的に満足いく本とは限らんなという話ですね。あたりまえ。満足いく本が読みたければちゃんと選ぼうという話です。ちゃんと選ぶというのが非常に難しく、時にランキングに流れちゃったりするのが人類なんですけどね。なんでも最初はそういうものだし、それでいいとも思いますけど。

ただこれ、「なぜこの本が売れているのか」ということを考え出すとだいぶ面白くなるんですよね。なんで教養のやつとか売れてるんだろう。買うのと読むのはイコールではないので、まずは「買う人の買う時の気持ち」になって考えることになるのですが、やっぱ期待しちゃうんじゃないですかね。いや、1日1ページで教養人になれるみたいな想像をしたら買っちゃう人類多いんだと思いますよ。僕は何かを勉強するとき、 ① 期限が迫り、ケツに火がつきます→② ファイアー というやり方が常套手段なので、これはまったく肌に合わないんですけど、たぶん「1日1ページ」という響きに対してえも言われぬ魅力を感じるジャパニーズはかなりいるんだろうなと勝手に思ってます。ホリエモンのやつに関しては、まあいつものホリエモンにかっこつけ落合陽一テイストが合わさり最強に見えるという感じですかね。ホリエモン、僕は別に彼の思想全肯定ではないのですが、おっさんの視点と進歩的な視点を両方持ってる上で実績があり喋りがうまいのでかなり強いなあという印象があります。

まあそんな感じかな。ちなみにこれ両方ともkindleで買ったんですけど、本屋に行かなくとも衝動買いできるのでkindleいいですよ。オススメです。下の方にリンク貼っときますね。アフィリエイトォォォ *2

(おわりです)

Kindle Paperwhite、電子書籍リーダー、Wi-Fi 、ブラック

 

*1:実際にはやってないので金は入ってきません

*2:やってない

今週の実績解除:人の金で飯を食う

雑に言うと就活イベントみたいなやつです。

具体的な話は書いていいか全然わかんないのでそのへんはふわっと書きますが、複数社が参加しており、我々は話を聞くと同時に肉を食います、という感じのやつです。何がいいって、肉のクオリティがガッチガチのガチなんですよね。カッチカチに空目しそうですが違いますよ。むしろローストビーフは非常にしっとり柔らかでして、なおかつ噛みしめるとしっかり肉の旨味が広がり、上品なオリーブオイルと塩と噛み合いうまく、しかも腹に対して十分量が用意されてたんですよね。あとはなんか謎の肉団子があり、普通の肉団子というのはネッチョリしがちなのですがこちらは肉としての自我を残しつつ火が入ってキリッとしており、非常にしっかりとしたお方であるという印象を受けましたね(尊敬のあまり擬人化)。そしてその上に適度に酸味と甘味のあるソースが絡み合い、うま、という。あとなんか謎の部位の肉もあり、頬と聞いた気もするが忘却。というか頬だとしたら煮込んでトロっとさせるのが定石な気がするのだが全然違い、むしろサッと火を入れシンプルに味付けをし素材のコリッとした歯ごたえとコッテリ感が並走して押し寄せてくるやつだったので頬でないかも?不明。ともかくうまかった。これ全部合わせたとして等価なコースをレストランで食すと3000円くらい取られるんじゃないか?という気がしますね。バケットとちょっといい赤ワインを追加して5000円くらいで食いたいな、という気持ちになりましたし、今もそうなっています。

まあ飯も食えましたし、色んな社の話もサラッと聞けたので良かったです。1社すごくエンジニアさんが楽しそうで印象が良かったところがあるので、あそこのサマーインターンは出します。他はまあそうですね、イベ自体が社数に比して短かったし肉が美味しかったので印象が……。ともかく各社真面目にエンジニアを欲しがっているっぽくコンタクト先も提供されたので、説明聞いて気合が入ったなら突っ込んでいける感じはするのでよいのではないでしょうか。総じて良かったですね。そんな感じです。

そして話はこれで終わりではなく、なんと別日別件で寿司を食いました。こちらは合同イベではなく御社に赴いて普通に説明会、という類。なんか一般公開されてるものでもなかったらしいのですが、インターネットの海を回遊したり軽く水面をバシャってやったりしてるとどこからともなくボトルの入った瓶が流れてくるという話がありましてね。ちなみに他の人々は人間の連帯で来ていたっぽく、ソーシャルグラフで僕一人だけ孤立点という感じがしたので面白かったです。

寿司の話をしましょうか。寿司自体は某silverのdishで、delivery sushiを食べるの自体が初だったのですが、めっちゃうまい。deliSushiとしてはチラシ等で一番良く見る店なのでそんなグレードが高いやつではないんじゃないかと思ってたんですが普通にうまくてビビりました。具体的には僕の中では寿司のグレードが「ハイ(食ったことないけど、金額が万に達する店に行くと出てくるであろうと想定されるもの)」「ミドル(ハイでない寿司屋、うまい)」「ロー(回転寿司やスーパーの寿司、これはこれでうまい)」に分かれていてローが出てくるかと思ったらミドルの真ん中くらいのが出てきた感じ。あと重要ポイントとして、説明会の人数が少なくて寿司が余り気味だったので腹一杯食えたのと、ビールも飲めました。情報収集のつもりで赴いたら普通に息抜きになっちゃいまして、大変よかったですね。もちろん説明もかなりキッチリしたのを聞きまして、非常に印象が良かったのであそこのサマーインターンも出します。要求ラインだいぶ高そうだったなぁ……。

とまあ、こんな感じのことがありました。人の金で飯を食うというのは別に人生初ではなく、先輩におごってもらうみたいなのはサークルでももちろん普通にあったのですが、それとはまた別の感情になりますね。サークルの先輩におごってもらうのも非常に嬉しいのですが、やはり「いいのかな」「ありがたいな」「でもいいのかな」みたいな感情の揺れがどうしても発生してしまうんですよね。一方こういう企業系のやつに関しては、「僕が存在してるだけで向こうの広報ニーズを満たせる」と考えられる以上、完全にwin-winだと思い込めます。そのため、「そっちの欲求を満たしているのだから僕の欲求を満たしても何の問題もないだろう?フハハ」という感じで、終始強い気持ちで飯を食えまして、大変良かったです。そうそう、強い気持ちといえば、最初の肉イベントでは他の人が喋ってる中で肉を食うのに抵抗があったのですが、横にいたエンジニア志望氏が明らかに100%の意識を肉に集中させ、肉を食うという非常に強気のムーヴを見せており、僕も気兼ねすることなく強気で肉を食べられました。きっとこういうのを連帯感と呼ぶのでしょう。道徳ですね。

 

まあそういうわけで、意識高い優秀なエンジニア求職者のフリをするとおいしくておいしい思いができるという話でした。なお、実際は優秀なエンジニアじゃないので選考に落ちまくるのですが、これは些事です。

 

(おわりです)

今週の実績解除:救急搬送

先日、「仕事は楽しいかね?」という本を読んだ。意識高い系の間では超有名な、古典的書物の一冊だ。古典だけあってどっかで聞いたようなやつばっか書いてあったのだが、その中にふと目を引くフレーズがあった。

「明日は今日と違う自分になる」。

別に新規性があるわけではない。絶対にどっかで見たことがある。何なら最近はここで見たという具体的な記憶まである。そんな言い古された概念だ。この本が拡散元なのかな、とふわっと思っただけだった。ただ、読み通したとき、一番印象が強かったのがこの部分であった。たぶん、これは僕にとっての信条に近い、普段からの行動の根底になくもない、そんな位置にあるフレーズなんだと思う。理由立てて支持するようなものではないので、単純に「好きなフレーズ」だということだろう。

ここで出会い直したのもいい機会だ、とふと思った。そしてこうして書きとめておきたくなった。どうせなら、毎日とは言わないけど、週一でこうやって何かしら書きとめる機会でも作ろうかな、と思う。普段から僕は割と新規性を求めるところがあり、だからこそtwitterをよく見たり呟いたりしてるわけだけど、週に一度くらいは立ち止まって振り返ってみるのもいいのかもしれない。「今週は先週と違った自分に」なれているのか、ささやかながら確認していくのもいいだろう。

 

 はい、というわけで今週の実績解除についてお話します。今週は非常に容易で、人生初の救急搬送という大イベントがありましたね。

ほとんどtwitterに書いてしまったので詳しく書くこともないんですが、月曜夜に出先で1時間くらいの間にガッと気分が悪くなり、なんとか帰宅して仮眠して起きたら高熱と共に意識がほぼ飛んでました。寮に住んでたのが本当にラッキーで、「死ぬほどつらい」という主観だけがギリギリある状態で管理人さんに電話とかして騒いでたらなんやかんやあって最終的に救急車呼ばれました。多分自分一人だと無限躊躇して救急車呼べてなかったと思うので、これは本当に救われましたね。あと「歩く」などの行為がほぼ無理でした。

意識飛んでたといっても、普段の意識レベルに比べて、「5割死んでて、4割がつらさで埋め尽くされてて、1割が平常運転」みたいな感じで、完全に飛んでたわけじゃないんですよね。救急車の中とか病院の中とかで、名前やら何やら色々質問されたんですけど、全部ちゃんと答えてたしその記憶もあります。救急車に乗せられた時とかも、「おお、これが人生初の救急車かあ。ほーん。」「しかし僕が動けないばっかりになんだか申し訳ないなあ」「神様のカルテ読んだ直後に救急搬送されるのタイミング良さすぎワロタ」という謎の冷静な思考が片隅にありました。まあ全然大丈夫じゃないにもかかわらず周りの人に「大丈夫大丈夫」ってめっちゃ言いまくってたので判断力はガタ落ちしてたと思うんですけどね。余談ですが、救急車内で横になってる状態で運転されると思ったより気持ち悪いです。

結局入院と同時にガッツリ各種検査をするも尽く正常値。背中に針刺して髄液取る検査が人生最悪の経験で、二度とやりたくないですね。CTスキャンは部屋がクソ寒く、脳波を取るやつは変なワックスをつけられて寝ていました。MRIも初めてやったんですけど、あれめっちゃ時間かかかるんですよね。30分くらいかかったのが普通にしんどかったです。あと、「装置音がうるさい」という理由で謎の愉快な曲が大音量で流れるヘッドホンを装着させられたのが面白かったですね。検査の進行にフェーズみたいなのがあるらしく、装置のガシャコンウォーン的稼働音が1章→2章→3章という感じで変化していくんですよね。どうでもいい経験でした。結局、医者からは「原因は全然わからんけど、まあ体調崩さないようにがんばってね」という意味の言葉を頂き、ほう。という気持ちで終了。木曜に退院しました。5万円くらい飛んで最悪でしたね。正直不摂生していたつもりもなく、反省のしがいが全くない、というのが正直なところです。「お昼ごはんを調子に乗っていっぱい食べたら眠くなっちゃった」とかの方が100倍くらい反省しがいがある。

まあ最終的に、人生は運ゲーだなということを再確認する以外に特に学びはないですね。しかしtwitterでも言ったんですが、僕には「祈り」、つまり「人生のままならなさと折り合いをつける行為」が足りてない。小説を読むのが今一番有力な祈りではないかという説が出ていて、読もうかなと思っています。まさしく、ままならない人生と向き合うシミュレーションですもんね。いい小説募集中。

そうそう、ままならないといえば課題がクソやばいですね。誰か助けてくれ(祈り)

 

(おわりです)

一人っ子の重圧

 「お前、一人っ子だろ?」と言われることが多い。やはり見てわかるものなのだろう。事実として僕は一人っ子である。一人っ子の特徴としてよく挙げられる、のんびり屋、争いが苦手、同年代の人間と打ち解けるのが苦手、などの特徴をモロに備えている。お互いの兄弟構成を知らない間柄で、「君兄弟いる?当てるわ。長男でしょ?」などという盛り上がり方を一度はすると思うが、僕のターンはいつも「お前一人っ子だろ?あ、そう?やっぱりな」で即終了してしまう。悲しい限りである。
 
 実際のところ、僕は割と典型的な一人っ子として育ったように思う。競争相手がいない環境下で親の愛情を独占して育った。「兄弟がいる人は羨ましいか?」というのをたまに考えるのだが、「一人っ子としての生活にあまり不満がなかったので特に羨ましくはない」という結論に着地することが多い。部屋や物の独占が許されず、常に争いの絶えない環境というのは、僕には嫌だし無理だろうなと思う(兄弟イメージが雑なのは許してほしい。いないのでわからない)。何も気にせずお部屋でのびのびできるのはいいものである。元々の性格なのか、一人っ子として育ったのでそう思うのかはわからないけど。ただ、たぶん環境の影響というのは無視できないと思う。僕は父と性格がよく似ているのだが、父は僕より好戦的で支配者的な面がある。父は長男であった。僕も兄弟のいる環境で育ったならまた違ったかもしれない。
 
 一人っ子であることにあまり不満はないのだが、しかし全くないわけでもない。いや、「不満」というよりは「気がかりなこと」と表現したほうが近いか。それは、「一人っ子には特有の重圧がかかる」、ということである。うーん、この表現もあまり正確とは言えないかもしれない。たぶんこの表現だと、親から愛情を全部注がれて育ったので、親の決めたとおりの人生を歩むことを強制される、みたいな、「生き方に対する重圧」が想起されてしまうんじゃないかなと思う。もちろんこれも言いたいことの一部ではあるのだが、僕個人にはほとんど当てはまらないのだ。
 僕の父は非常に理解のある人間で、一貫して「俺とお前の人生は違うんだからお前の人生には口出ししない、何をやってもいい」と言ってくれていた。そのおかげで、親に人生を支配されている、という感覚は一切なしに、自由に自分の人生を生きていると感じられている。これは非常にありがたいことだと思う。しかも、これと同時に、「お前には勉強の才能があるし、まだわからんけど見た感じそれ以外の才能はあんまないので、他にやりたいことがなければいい大学に行っておいたほうが得だと思う」とも言ってくれた。これも大当たりだったので感謝している。そういうわけで、別に「生き方に対しての重圧」というのは僕はあまり感じていない。じゃあ何の重圧かというと、もっと根源的なものである。
 
 両親にとって、僕が死んだら僕の代わりはいない。
 
 父の友人に、○○さんという人がいる(○○なのは名前伏せ)。単に父の個人的な友人というだけなので、僕は会ったこともない人なのだが、「今日は久しぶりに○○と酒を飲んできた」とか「この間○○がこんな事を言っていた」とかいう話を子供の頃からよく聞かされていたので、名前には親しみがあった。父とずいぶん仲の良い友人のようだった。○○さん夫妻には一人息子がいたようで、「○○さんの息子が成人した」という話も父の口から聞いた。
 僕が高校生だった頃のように思う。ある日突然、父が「○○の息子が交通事故で亡くなった」と言ってきた。僕からしたら会ったことのない人の家族の会ったことのない人なのだが、それでも言い知れない衝撃を受けたのを覚えている。○○さん夫妻は、20歳になる一人息子を突然失ったのだ。後日、その息子さんの葬儀に参列した父は、葬儀の様子を少しだけ語っていた。
 とても見ていられるものではなかったという。
 ○○さんの奥さんはほとんど正気を失っていて、○○さんも生きる気力を全て吸い取られたようだった。「かける言葉が何一つ見当たらなかった」と父は言っていた。
 
 この時僕は、自分が死んだら両親がどうなるかという想像をした。それは容易に想像できてしまった。葬儀の話をする父と母の様子を目の当たりにして、その日から想像が質感を持ってしまったのだ。それまで僕は、自分が死んだら親は悲しんでくれるかな、と思う一方で、でも僕の人生なんだから死のうが勝手だろ、好き勝手させろよ、という、どことなく自棄っぱちな考え方をしていた。しかしそんな甘いことはもう言えなくなってしまった。僕が死んだら、両親の心の全てを擦り潰すことになってしまうのだ。
 
 僕は今もずっとこれを背負って生きている。「あなたはなぜ生きているの?」と問われたら、「絶対に親より先に死ぬわけにはいかないから」と答えるだろう。僕はこれを徹底する覚悟でいる。どれだけ自分にとって楽しそうでも、「生命の危険」カテゴリーに入る行為は絶対にやらないようにしている。親より生き永らえるためならキツイ仕事でも命乞いでも土下座でも逃走でも犯罪でもやるだろう。それでもダメならせめて親を殺したあとに死ぬつもりだ。
 
 しかしまあ、僕の場合は「生きている必要がある」というだけだからまだ軽いが、人によっては親から期待された「生き方」なんかを背負ってしまったりするわけだ。別に親が悪いわけではなく、親の愛情が一点に全振りされる以上はそうならざるを得ないだろう。単なる構造とその帰結の話にすぎない。これはダメというわけでもないのだろうが、ハイリスクだなあと思ってしまう。「卵は一つのカゴに盛るな」という投資の名言を引いてくるまでもなく、この一点集中には危うさを感じる。
 
 なんとなくだけど、この状況は、日本が「先進国」だから生じることなんだろうと思う。少子化は複合要因の現象ではあるが、「人間がなかなか死なない」という環境は要因の一つにはなっているはずだ。計画的に進められると思ってしまうのだろう。子供は一人、アレとコレを習わせて将来はあんな仕事に就かせよう。まあ確かになかなか死なないのでだいたいは上手くいくんだろうが、どれだけ頑張っても子供が突然に死ぬのを防ぐことはできない。そしてそれを引くとどん底になってしまうのである。まあ死なないにしろ、親の計画なんてものは容易に裏切られる。僕の両親も含め、一人っ子の親というのはその辺を自覚しているのだろうか。単に自覚してないにしろ、あえて見て見ぬふりをしているにしろ、何だか歪な構造だなあと思ってしまう。まあだからといって多産多死が自然なので良いとかいう話にもならないけど。社会はあちこち歪んでるので、そのうちの一つだなあ、というだけの話だろう。
 
(おわりです)

結論のない文章

 つい最近、自分の書いた文章を読み返す機会があった。「冊子」という単語で、サークル関係の人はピンとくるだろう。そうしていると1つ仮説が出てきた。僕の文章は「関連性」と「結論」へのこだわりが強すぎるので面白くないのではないか。
 
 自分で言うのもなんだが、あの文章、出だしの部分はまあまあうまくいっていた感がある。一方、中後半では急速に失速し、何が言いたいかわからないし全然面白くない感じになってしまった。しかしよく考えると、あの文章、筋はかなり明確というか、個人における「中心」と「調和」→会全体にも「中心」と「調和」という概念は適用できますね、というかなりシンプルで露骨な構成をしている。しかし読んでいて何を言っているのかよくわからないし、全然面白くない。
 
 ところで、僕は文章を書く時には、まず適当にバーっと広げて、その後気合を入れて畳む、という方式を取っている。これは別にまずい方法だとは思っていないのだが、畳む時に「筋」を意識しすぎて面白くなくなるのではないか、という疑いが出てきた。畳むフェーズは自分の中で一番労力というか神経を使っている自覚があり、特に「本筋と関連性のない話を削ぎ落とそう」という意識が強い。そして本筋があるということは話の流れと着地点が定まっているということである。畳むフェーズに行くあたりで、本筋を決めなきゃ、と感じて話の着地点をキッチリ決めようとしてしまう。あの冊子の文章、好き勝手に展開している前半が調子よくて、中後半はよくわからない感じで死んでいたのだが、まさしくコレの負の面がモロに出たのではないだろうか。(あとはまあ、中盤にトリッキーな仕込みを入れようという気持ちが強すぎて、それに構成が引っ張られて面白くなくなった、というのもあるだろうけど。)
 
 冊子を読んでいると、やはり文章の面白い人というのが何人も見つかるわけだ。そして構成に着目してみると、やはり論理がガチガチで面白い文章というのはほとんどない。だからといって散逸しているわけでもなく、ちょっとづつ移動しながらも適度に重なりのある話をしている人が一番面白い気がする。こう、ベン図みたいな感じで。もしくは単に円が平行移動してるやつ、ボールが転がる時の絵みたいな感じで(?)。ある程度まとまりのある話を、ちょっと重ねながらズラしてポンポンポンと置いていく、みたいな。この方法だけが全てではないだろうけど、話の構成としては1つのうまい解だと思う。
 
 というわけで、結論をあまりキッチリ求めないようにしようね、というのを試していきたい。別にやったらダメというわけでもなかろうし、むしろ筋と連関をガチガチにやるのが僕の文章の特徴だとしてやっていく線もあるんだろうけど、自分の傾向に逆らってみようというチャレンジは大事な気がする。そもそも今この文章を書きながらも無意識に結論を探しているし、「筋がないなら〆に入るなよ」という脳内ボイスは今も鳴り響いている。これは意地だ。結論をキッチリしないという決意があるぞ、多分今は粗があらあらな文章だろうけどこのまま投稿してやる。これは推敲をしてないだけの見づらいやつになるのでは?という疑いもよぎるが、その時はその時だろう。
 
 ところで、その方針を取ると今度は「うまいこと文章を〆るのが難しい」という課題に直面する。というかこれは普段から難しいのだが、結論がキッチリ決まってると、論理的帰結としての着地+多少のふわっと感 でなんとか文章が終わった感じを出せるのでまだどうにかなる。一方、結論がキッチリ決まってないと、全部ふわっと感で着地する必要がある気がしている。これはかなり大変なんじゃないだろうか。しかし面白い文章を見ると、やはり一連の話の中でのゆるい重なりをうまく使ったり、あるいはそうするまでもなくふわっと着地する術を心得ている気がする。これ特殊能力じゃないか?全然できる気がしない。僕の性格的に、こういう場面では「わからない……なにもわからない……END」や「あえて勢いだけで雑に打ち切るEND」「全然関係ない画像を貼るEND」などで無理やり笑いどころにしてごまかしたくなるのだが、ひねりがなさすぎてあまり多用するものでもないなあ、という感じだ。ん、なんか今猛烈に自分の首が絞まった気がするな。普段やってることがバレた。こんなん言って今後このオチを使ったらクソダサいのだが、いい代案もないし、これからもバシバシ使っていくことになると思う。残念なことだ。
 
 まあそういう感じです。結局何もわかりませんね。
わからない……我々は人生について何もわからないのだ……。
ハイおわり!!!!!!!!!!!
 
 
(おわりです)