年を越せ

何がそんなにめでたいというんだ?無事に年越しを迎えられるのがめでたいのなら他の瞬間だって同じだ、毎分毎秒祝うべきじゃないのか?

人生の本質はたぶん忘却にあって、無事のありがたみを年越し一点に押し込めることによって他の時間はありがたくなく過ごすことができます。でも別に無事でいることだって本当の人生を思い出したらそんなにありがたいことじゃないので年を越した瞬間だったとて。それが理由で僕は年越しをそんなに珍重しないのではないだろうかとふと思う。

(年越しをそんなに珍重しないというのは完全に嘘で、毎年ジャンプしたり何だったりを一応していた。高校までは。大学に入って一人で過ごすようになってからはもはやどうでもよくなり、結局は横に人間がいたりいなかったりするのが理由なのか?でも僕の親はもう随分前から年を食っていて、1/1へとかわる記念すべき24:00はいつだって寝ていた。かつては叩き起こしたりしていたけど普通にかわいそうだったのでやめました、親は大事にしましょう。)

よいお年をって言ってるのも忘却の一種でしょう、よいお年をって今年一年だけでいいわけないだろ、良い人生をって言えよ。まあ人生が良かったところで何もないんですが……。これも一年単位なんですよ、来年のことは来年の正月に。セクションで人生を埋め尽くすことができるんですよ、知っていましたか?俺は知っていた。さっきようやく気がついたんだ。

人間が一年単位で忘却に押し込めることは単に利便性が理由だと思うんだけど、何やら伝統とか道徳を帯びるのは気に食わないですよね。僕はそうです、かなり気に入らない!こう、正月に初詣に行くと、『あの人は「ちゃんと」正月を祝う人だ』みたいな評価を得られるのおかしくない?俺は必ず道で見かけた蛇を蹴り殺している*1んだけど、これを話したところでこのエピソードに「ちゃんと」はつかない。なんでだよ。蛇が干支だからか?「ちゃんと」=「許容的な」で表層を、膨大な非許容的振る舞いを本質に社会を構成しているくせによく言いますね、あるいはそうだからそう言うのかもしれないけれど。死骸と歴史を中心核に、初詣を一番外側に持つ地球様の球体の上でのうのうと営む暮らしはいかがですか?暮らし自体はいいですよ、人生は最悪ですが、としか言えんなこんなもん。

本当は一年以外といわず全部忘れたいので酒を飲みたいです。いつか落ち着いたらいきましょうみなさん。蛇と蛇以外の大勢がもう死んでしまったか、あるいは僕らが殺しました。彼らはもう生きていられなかったけど、我々はせめて次の巳年くらいまでは生きていたいですね。そういえば四半期って言葉があるなあ、なんでもまずは四等分を目指すのが筋が良いのかもしれないとふと思った。そうなると言う言葉が一意になってしまう!まあ子年の最後の言葉としてはふさわしいのか*2

良いお年を。

(おわりです)

*1:0/0

*2:一意だけにって言ったら斜にタコ殴りにされそうだけどまっすぐ生きていきたいので言います、一意だけに。