一人っ子の重圧

 「お前、一人っ子だろ?」と言われることが多い。やはり見てわかるものなのだろう。事実として僕は一人っ子である。一人っ子の特徴としてよく挙げられる、のんびり屋、争いが苦手、同年代の人間と打ち解けるのが苦手、などの特徴をモロに備えている。お互いの兄弟構成を知らない間柄で、「君兄弟いる?当てるわ。長男でしょ?」などという盛り上がり方を一度はすると思うが、僕のターンはいつも「お前一人っ子だろ?あ、そう?やっぱりな」で即終了してしまう。悲しい限りである。
 
 実際のところ、僕は割と典型的な一人っ子として育ったように思う。競争相手がいない環境下で親の愛情を独占して育った。「兄弟がいる人は羨ましいか?」というのをたまに考えるのだが、「一人っ子としての生活にあまり不満がなかったので特に羨ましくはない」という結論に着地することが多い。部屋や物の独占が許されず、常に争いの絶えない環境というのは、僕には嫌だし無理だろうなと思う(兄弟イメージが雑なのは許してほしい。いないのでわからない)。何も気にせずお部屋でのびのびできるのはいいものである。元々の性格なのか、一人っ子として育ったのでそう思うのかはわからないけど。ただ、たぶん環境の影響というのは無視できないと思う。僕は父と性格がよく似ているのだが、父は僕より好戦的で支配者的な面がある。父は長男であった。僕も兄弟のいる環境で育ったならまた違ったかもしれない。
 
 一人っ子であることにあまり不満はないのだが、しかし全くないわけでもない。いや、「不満」というよりは「気がかりなこと」と表現したほうが近いか。それは、「一人っ子には特有の重圧がかかる」、ということである。うーん、この表現もあまり正確とは言えないかもしれない。たぶんこの表現だと、親から愛情を全部注がれて育ったので、親の決めたとおりの人生を歩むことを強制される、みたいな、「生き方に対する重圧」が想起されてしまうんじゃないかなと思う。もちろんこれも言いたいことの一部ではあるのだが、僕個人にはほとんど当てはまらないのだ。
 僕の父は非常に理解のある人間で、一貫して「俺とお前の人生は違うんだからお前の人生には口出ししない、何をやってもいい」と言ってくれていた。そのおかげで、親に人生を支配されている、という感覚は一切なしに、自由に自分の人生を生きていると感じられている。これは非常にありがたいことだと思う。しかも、これと同時に、「お前には勉強の才能があるし、まだわからんけど見た感じそれ以外の才能はあんまないので、他にやりたいことがなければいい大学に行っておいたほうが得だと思う」とも言ってくれた。これも大当たりだったので感謝している。そういうわけで、別に「生き方に対しての重圧」というのは僕はあまり感じていない。じゃあ何の重圧かというと、もっと根源的なものである。
 
 両親にとって、僕が死んだら僕の代わりはいない。
 
 父の友人に、○○さんという人がいる(○○なのは名前伏せ)。単に父の個人的な友人というだけなので、僕は会ったこともない人なのだが、「今日は久しぶりに○○と酒を飲んできた」とか「この間○○がこんな事を言っていた」とかいう話を子供の頃からよく聞かされていたので、名前には親しみがあった。父とずいぶん仲の良い友人のようだった。○○さん夫妻には一人息子がいたようで、「○○さんの息子が成人した」という話も父の口から聞いた。
 僕が高校生だった頃のように思う。ある日突然、父が「○○の息子が交通事故で亡くなった」と言ってきた。僕からしたら会ったことのない人の家族の会ったことのない人なのだが、それでも言い知れない衝撃を受けたのを覚えている。○○さん夫妻は、20歳になる一人息子を突然失ったのだ。後日、その息子さんの葬儀に参列した父は、葬儀の様子を少しだけ語っていた。
 とても見ていられるものではなかったという。
 ○○さんの奥さんはほとんど正気を失っていて、○○さんも生きる気力を全て吸い取られたようだった。「かける言葉が何一つ見当たらなかった」と父は言っていた。
 
 この時僕は、自分が死んだら両親がどうなるかという想像をした。それは容易に想像できてしまった。葬儀の話をする父と母の様子を目の当たりにして、その日から想像が質感を持ってしまったのだ。それまで僕は、自分が死んだら親は悲しんでくれるかな、と思う一方で、でも僕の人生なんだから死のうが勝手だろ、好き勝手させろよ、という、どことなく自棄っぱちな考え方をしていた。しかしそんな甘いことはもう言えなくなってしまった。僕が死んだら、両親の心の全てを擦り潰すことになってしまうのだ。
 
 僕は今もずっとこれを背負って生きている。「あなたはなぜ生きているの?」と問われたら、「絶対に親より先に死ぬわけにはいかないから」と答えるだろう。僕はこれを徹底する覚悟でいる。どれだけ自分にとって楽しそうでも、「生命の危険」カテゴリーに入る行為は絶対にやらないようにしている。親より生き永らえるためならキツイ仕事でも命乞いでも土下座でも逃走でも犯罪でもやるだろう。それでもダメならせめて親を殺したあとに死ぬつもりだ。
 
 しかしまあ、僕の場合は「生きている必要がある」というだけだからまだ軽いが、人によっては親から期待された「生き方」なんかを背負ってしまったりするわけだ。別に親が悪いわけではなく、親の愛情が一点に全振りされる以上はそうならざるを得ないだろう。単なる構造とその帰結の話にすぎない。これはダメというわけでもないのだろうが、ハイリスクだなあと思ってしまう。「卵は一つのカゴに盛るな」という投資の名言を引いてくるまでもなく、この一点集中には危うさを感じる。
 
 なんとなくだけど、この状況は、日本が「先進国」だから生じることなんだろうと思う。少子化は複合要因の現象ではあるが、「人間がなかなか死なない」という環境は要因の一つにはなっているはずだ。計画的に進められると思ってしまうのだろう。子供は一人、アレとコレを習わせて将来はあんな仕事に就かせよう。まあ確かになかなか死なないのでだいたいは上手くいくんだろうが、どれだけ頑張っても子供が突然に死ぬのを防ぐことはできない。そしてそれを引くとどん底になってしまうのである。まあ死なないにしろ、親の計画なんてものは容易に裏切られる。僕の両親も含め、一人っ子の親というのはその辺を自覚しているのだろうか。単に自覚してないにしろ、あえて見て見ぬふりをしているにしろ、何だか歪な構造だなあと思ってしまう。まあだからといって多産多死が自然なので良いとかいう話にもならないけど。社会はあちこち歪んでるので、そのうちの一つだなあ、というだけの話だろう。
 
(おわりです)